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戸次重幸ボランティア体験記
出発に至るまで
「自分達にできること」
それを模索して、我々を含め、いろんな業界の方々が、いろんな結論を出して、
いろんなかたちで、支援を行ってきたし、今もそれを続けている。
ただ、震災から4ヶ月経って、一番怖れていたことは、被災された方々への想いが、風化することだった。
当時、義援金や支援金は、それ自体一番即効性のある支援のかたちだろうと思っていたら、
どうやらそれ自体も様々な事情のせいで、「即効性」はないことが分かった。
そしてtotsugi式の仙台公演にしても、劇場の屋根が崩れ落ち、
代わりの劇場もみつからないという仕方ない事情こそあれ、
本来一番【自分達にできること】であろうはずのことができなかった。
なにもできていない自分に、焦る気持ちが募る‥‥。
だが、俺はなにをしたらいい?なにをしたら、ほんの少しでも被災地の為になれる?
そんなことを考え、今にして思えば短絡的だが、フォトダイアリーで「俺になにをしてほしいですか?」と、
被災者の方々に意見を頂戴した。
その中で、被災者ではない方が、
「俳優の戸次重幸として行くのか、個人の佐藤重幸として行くのか、それによって答えは違ってくると思います」
との意見があり、はっとさせられた。その二つを、一緒に考えていた自分が恥ずかしかった。
戸次として行くのなら、主に避難所を廻り、
避難されている方々に会い励ましの言葉をかけるなりの行動になるだろう。
しかし、ぶっちゃけ俺はそこまでの芸能人でもない。
そして、それすらも
「避難所を全て廻るのでもない限り、それは不公平になるのでやめた方がいい」
との意見も頂戴した。
では、やはり佐藤として、個人の、いちマンパワーとして行こうと決めた。
その上で体験して感じたこと、考えたことを、こうして、戸次として、皆さんに発信させてもらうことが、
まずやることなのではないか?という結論に達し、被災地に行ってきた。
しかし、被災地といっても広い。どこの被災地に行く?
そこで、石巻でもう2ヶ月以上ボランティア活動をしている福島カツシゲさんに頼った。
『ライトフライト』から付き合いのあるカツシゲさん。本来、気が沈みがちになりそうな被災地の現場を、
明るく楽しく伝えていたカツシゲさんのブログは、以前からチェックしていた。皆さんも是非チェックしてほしい。
http://leader2940.blog59.fc2.com/
聞けば、カツシゲさんも同じだったという。
被災地でボランティアはしたいが、どこになにをしに行ったらいいかわからない。
そこでカツシゲさんは、以前仕事を共にしたピースボートというNGO団体に連絡した。
ピースボートさんは、震災直後いち早く石巻でのボランティア活動に従事していた団体。
カツシゲさん曰く「今日なにをやるか、明日なにをやるかがめっちゃ明確で、システマチックやねん」
つまり、せっかく行ってもやることがないという状態にはならないということ。
素晴らしいと思い、俺もそのなかで活動させてもらうことにした。
石巻へ
東京から新幹線で仙台へ。そこからバスで石巻へ。
石巻駅でカツシゲさんと合流し、カツシゲさんは、その日の作業は既に終わっていたので、
今回被害のひどかった石巻港がある門脇(かどのわき)地域が見渡せる日和山(ひよりやま)という公園に俺を連れて行ってくれた。
言葉を失った。
そこには以前おにぎりロケで取材させていただいたこともある、石ノ森漫画館も見ることが出来た。
そして、門脇地区に降りてみた。
「現実味がないね‥‥」
というと、
「そうやろ。ただ、俺らにはもうこの風景が【日常】としてあんねん」
と返すカツシゲさん。
「俺がここに来たとき、最初にピースボートの人達に言われたんは
【ボランティアをやる上で常に心がけてほしいのは、もし自分が同じ境遇にあったら?】
ということやってん。正直キツい作業やけど、それ思ったらなんでもできるし、
なんでもせなあかんって思えるで」
と、教えてくれた。
なんでもしようと思った。
家がない。帰るところがなくなる‥‥こんなに辛いことはない。
まして、家を建てるには仕事がいる。
だが、その仕事も同時になくしてしまった方々が大勢いる。
なんでもしようと思った。
そしてその後、ピースボートさんが一日の終わりの報告会をしている宿舎に向かった。
カツシゲさんが俺の宿をそこに設定してくれたからだ。
本当は体調管理を考え、近くのビジネスホテルにしようと思ってたんだが、
ボランティアや委託された業者の方々で、7月いっぱいはどこも満室。
それでカツシゲさんの計らいで、元は居酒屋で、
今はピースボートさんの宿舎になっているというところに泊まらせてもらうことになった。
せっかくなのでそのミーティングを見学させてもらったが、
ここまでシステマチックなものだったのかと、正直驚いた。
一口にボランティア活動といっても、その内容は多岐にわたる。
【クリーン】 主に、津波がもたらした街に溜まる泥をかき出す作業。
【土嚢バスターズ】 毎日街の道路脇に運ばれる泥の入った土嚢袋の回収。
【キッチン】 避難所や在宅避難をしている方々への食事づくり。
【デリバリー】 上記の配給。
【食料支援】 避難所での自炊を促す食材配給。
【漁業支援】 漁師の方々からの様々な要請に対する作業。
【ダニーズ】 避難所の毛布のダニの駆除。
【お風呂】 避難所の方々への仮設風呂の支援。
【町づくり】 地域産業の復興のため、町の商工会の方々との相談委員会
覚えているだけでもこれだけの部署に分かれていて、その各部署のリーダーが、その日の作業内容を報告。
その1時間以上かかるミーティングが終わるのは午後の10時前。
そして皆、翌日は6時には起床して、遅くとも8時にはもう各部署での作業が始まっている。
並の精神力では無理だと思った。もちろん体力も。
そんなこんなで日が明け、
俺のボランティア第1日目は、【漁業支援】の一環である漁具回収。
場所は小網倉浜(こあみくらはま)の漁港。
はじめにカツシゲさんが言った。
「まあ、はじめにコレやっとけば、あとはもう怖いもんなくなるわ」
相当キツい作業らしい。
果たして、その通りだった。
作業内容は、サルベージ船で引き揚げられた牡蠣の養殖に使うロープの回収。
今日本中でロープが不足していて、その特殊なロープを買おうにも買えない。
だから、引き揚げられたロープを使うしかない状況だという。
しかし、その引き揚げられたロープは、大中小の太さのロープが複雑に絡み合っている状態だという。
それを1本1本ほどいていく作業。
言葉だとよく分からないだろうからご覧頂こう。
唖然とした。
この中から、1種類だけのロープを‥‥?
そして、写真では伝わらないが、そのロープに付いていた大量の牡蠣が腐った悪臭と、
そこに大発生したウジとハエは強敵だった。
はじめに重機でロープの山をほぐし、そこからは、機械では無理な、マンパワーならではの作業。
お目当ての中サイズのロープを引っ張りだし、黙々と輪に結わいていく。
カツシゲさんも奮闘中。
正直、作業しながらの写真撮影は手間だったが、これも大事な作業だと、自分を奮い立たせる。
海外からのボランティアさんも大勢いてくれたおかげで、その日のノルマは達成できた。
人力って凄い‥‥!
マンパワーの凄さにひたすら感動した。
すぐ横で、漁師さん達が牡蠣の稚貝を帆立の貝殻に付け、養殖用のロープに付ける作業をしていたが、
その牡蠣が食べられる様になるまで3年かかるという。
つまり単純な話、その漁師さん達は丸3年収入がないのだ。
それでも、来年も、再来年も、漁師さん達は養殖の作業を続けていく。
3年後、絶対に小網倉浜で獲れた牡蠣を食べたいと思った。
石巻滞在2日目
2日目は、
【クリーン】の一環である、マンション1階部分の泥のかき出し。
5人チームで作業に当たる。
2日目からの宿泊先から近い場所なので、自転車に乗って移動。
この辺りは、津波の高さが2mを越えていたため、マンションに限らず1階部分は完全に水に浸かり、
水が引けた後、その中は泥と家具でめちゃめちゃな状態だった。
床、壁の張り替えをするのだが、その前の家具と泥のかき出しは、主にボランティアの作業だ。
そして住人から
「思い出の写真やアルバムなどが出てきたら取っておいて欲しい」
との要望もあったので、
注意しながら泥をかいていたが、なかなかみつからない。
諦めかけていたら、なんと最後にかき出していたトイレルームの中から
卒業アルバムが出てきた!
一同、宝の山をみつけたかの様に歓声を上げ、喜んだ。
しかし、本来リビング周りにあったであろう卒業アルバムが、トイレまで流れていたなんて‥‥
部屋の中を、どれだけの水流がうねっていたんだろうと、改めて、津波の力を思い知った。
そして、アフターの写真がこれ。
床も壁も張り替えるのだから、正直ここまで綺麗にしなくてもいいのだが、
これを見たマンションのオーナーさんが、もう一度やり直す気力を、
更に強く持ってもらえる支えになるならとの想いで、大体ここまで綺麗にする。
そして、素晴らしい出会いもあった。
我々が作業をしていると4人組の若者がやって来て
「フリーでボランティアに来てるんですけど、手伝わせてもらえませんか?」ときた。
聞けば、石巻にボランティアに来たのは今回が3回目。4人のリーダーは大阪からで、
他のメンバーもそれぞれバラバラの土地からやってきた友達同士。4人共野宿で石巻に滞在しているらしい。
リーダーのあだ名から彼らを「ゴリラ隊」と名付け、一緒に作業をした。
他の部屋の家具を運び出すゴリラ隊。
ゴリラ隊のおかげもあって、本来そこまではやる予定のなかった、マンション周辺の瓦礫撤去作業も、
その日のうちに終えることができた。
ちなみにリーダーのゴリラは、本名「森源太」といって、大阪のシンガーソングライター。
HPはコチラ http://morigenta.net/
熱い男たちだったぜ、ゴリラ隊!サンキュウ!
石巻滞在3日目
3日目。
昨日に引き続き、同じマンションの違う部屋の泥のかき出し。
ところが、ここにきてなんと‥‥
リーダーを任されてしまった!その名も「チーム・シゲ」!
カツシゲさんの現地でのあだ名も「シゲさん」なので、
「カツシゲのシゲですよね?」と訪ねると
「いや、シゲユキのシゲです」と、宿泊所のトップの方に言われた。
正直カツシゲさんは、いろんな現場を同時に監督しなければならない立場なので、この日も大忙し。
ずっと、俺らだけの現場にいられるわけではない。
そして、この日は短期ボランティアの方々の1日目になるので、1日の長とでもいうのか、
経験が0ではない俺に、1つの班のリーダーを任されてしまった。(それにしたって、たった1回だ‥‥)
totsugi式で演出をやった時にも思ったが、俺は人の上に立つというか、人を牽引できる人間ではない。
使われてなんぼな人間。そんなヤツがリーダー‥‥。
しかし、すでに班の方々は割と尊敬的な目で俺を見てる。(錯覚)
「で‥では、行きましょうか!」なかば緊張しながら、この日も自転車に乗った。
そして、この日の現場。
大きな家具は既に撤去され、泥のかき出しのみ。
で、大体綺麗になったのがこれ。
壁に付いた泥で、津波の高さが分かるだろう。
そして、午前中に作業が終わってしまったため、午後からは泥が溜まったプールの清掃に。
もう泥なんて生易しいものじゃなく、完全にヘドロ化している。悪臭もひどい。
排水管もヘドロで詰まってしまったため、水が抜けない状態。
まずは乾いている泥をかき出す。そして、たくさんの水を含んだ部分に、オガクズを投入。
オガクズに水分を染み込ませたら、ヘドロと一緒に土嚢袋へ詰める。
少しずつ、少しずつ、詰めて、運んで‥‥地道な作業が続く。
1人だったら1年かかるんじゃないか?ってほどだが、
60人ぐらいで一斉にやるとこうなる。
すごいぞ、マンパワー!
ただ、時間になってしまったためこの日の作業は終了。
石巻滞在4日目
4日目。
前日の続きの作業。全員「今日で作業を終わらせてやる!」と、意気込み充分。
まずはヘドロの上に溜まった水を、バケツリレーで可能な限り取っていく。
バケツリレー、人生で初めてやったが、人海戦術の成せる究極の作業だと、感動。
さあ、いよいよここにオガクズを投入して、本格的にヘドロをかき出す。
とにかく汗だく。
終わりが見えてきた。
が、まだまだある。
途中何回も水分補給を繰り返し、ついに‥‥
泥出し完了!
そして、少しずつ水を流し、ブラシと水切りワイパーで仕上げをして‥‥
感無量!!
ちなみに、俺の服やタオルが変わってるのは、当然着替えたから。
汗をかきがちな体質なので、1日に最低2回は着替えてた。
そして、作業終了と同時に、短期ボランティアの方々はバスに乗り東京へ帰っていった。
俺も、またバスと新幹線で東京へ。
こうして、俺の今回のボランティアは終了した。
そう、あくまで「今回の」だ。当然、また行かせてもらう。
現地の自治体も、もちろん日々懸命に復興作業をしているが、
正直言って、被災者全ての要求に手が回っているとは言い難い現状。
それぐらい今回の震災の規模が大きかったということだ。
圧倒的に人手が不足している。
だから、ボランティアが重要になってくる。
これから
滞在中、ほぼ毎日地震があった。
最終日のプール清掃中は、津波注意報が出たため、全員近くの安全な場所に避難し、
1時間以上作業が中断したほどだ。
震災直後、余震があるたび不安になっていた俺だが、正直最近は、慣れなのか、
地震があってもそこまで不安には思わなくなっていた。
ところが、被災地ではあの頃と少しも変わることなく、
未だに危険を孕んだ余震が続いている事実を、改めて認識させられた。
東京に戻ってから、自分が行った全ての場所を、Googleマップのストリートビューで見てみた。
そこには、震災前の、今の現状とは似ても似つかない元の街並が写っていた。
この街並を目指し、そして、街の人みんなが元の様に笑っていられるために、
自分達に出来る範囲で、たゆむことなく、支援を続けていきたいと思う。
【ボランティアに関する情報】
・全国社会福祉協議会「被災地支援・災害情報ボランティア情報」http://www.saigaivc.com
・助けあいジャパン(内閣官房震災ボランティア連携室 連携民間プロジェクト) http://tasukeaijapan.jp
・東日本大震災支援全国ネットワーク http://www.jpn-civil.net